俳優としても活躍し、世界的に有名な舞踏家・田中泯さんが、40歳で山梨に移住し農業を始めたことをご存知でしょうか。
なぜ田中さんはダンサーとしての絶頂期にそのような決断をしたのでしょうか。
その驚きの理由と、舞踏家としての新たな挑戦について迫ります。
田中泯の農業への転身 – その背景にあるもの
田中泯さんはどうして農業を始めたのでしょうか。
1985年、40歳の時に田中泯さんは東京から山梨県の白州(現・北杜市)に移住し、「身体気象農場」と名付けた場所で農業を始めました。
この決断の背景には以下のような理由がありました。
- 踊りの起源への探求:言葉が生まれる以前の人類の時間や踊りの起源を知りたいという思いがありました。
- 身体づくりの哲学:「野良仕事で身体を作り、その身体で踊る」という信念を持っていました。
- 自然との一体化:自意識や時間に縛られない自然の世界への回帰願望がありました。
- 父親への想い:農家出身だった父親の夢を継ぐ意味もあったようです。
田中さんは、次のようにも話しています。
僕にとって自然は神様みたいなもので、ずっと身体の中では生きていたんですね。ただ、暮らしの仕方がそんなに自然に近いものではなかった。それで40歳の時に、もう一度自然の中に戻る必要を感じました。言葉が生まれる以前に人類が過ごした長い時間や踊りの起源を知りたくて農業を始めたんです。農業は生物の歴史に関わる仕事ですから。
出典:公益社団法人日本芸能実演家団体協議会
自然の中で暮らし、農業を始めることで、踊りの起源や人類の起源を身を持って知りたいという探究心から沸き起こった行動だったようですね。
田中泯の農業と舞踏の融合 – 新たな表現の探求
農業を始めたことで、田中さんの舞踏表現はどのように変化したのでしょうか。
- 自然との一体感:農作業を通じて、自然のリズムや生命の循環を身体で感じ取ることができるようになりました。
- 身体の変化:野良仕事で鍛えられた身体は、新たな動きや表現を生み出す源となりました。
- 「場踊り」の誕生:特定の場所の空気や雰囲気を感じ取り、即興的に踊る「場踊り」というスタイルを確立しました。
田中さんは「農業をやっているなら、農業の身体で踊りが生まれてもいいんじゃないか」と考えるようになったと語っています。
この考えが、田中さんの舞踏表現をさらに深化させることになりました。
田中泯の農業生活がもたらした新たな視点
農業に従事することで、田中さんは舞踏家としての視点だけでなく、人間としての視点も大きく変化させました。
- 生命への洞察:植物の成長や昆虫の営みを通じて、生と死のサイクルをより深く理解するようになりました。
- 時間感覚の変化:自然のリズムに合わせて生活することで、都会的な時間感覚から解放されました。
- コミュニティとの関わり:地域の人々との交流を通じて、人間関係の新たな側面を発見しました。
- 環境への意識:農業を通じて、自然環境の大切さをより強く認識するようになりました。
田中さんはご自身の視点の変化について、次のように話しています。
都会の稽古場で踊りの練習をしていることに違和感を感じていた。「綺麗な稽古場でワン・ツー・スリー・フォーなんてやって踊りになるのか」と思ったら、何か疑わしくなってきて。それで実際に百姓を始めたら、いやいや踊りどころじゃないぞ、と。命とか、植物とか、自然観とか、死生観とか考えなくちゃいけないことが出てくるわ、出てくるわ。それをみんな、地面から湧き出すように感じたんです。
出典:PANJ
田中泯さんの感受性の強さと真摯に自然と向き合う姿勢、踊りへの飽くなき探究心がこのような視点の変化を生み、素晴らしい踊りに生かされているのではないでしょうか。
まとめ
田中泯さんの農業への転身は、単なる生活スタイルの変更ではなく、舞踏家としての深い探求心から生まれた決断でした。
自然との一体化を通じて、田中さんの舞踏表現はより深みを増し、「場踊り」という新たなスタイルを生み出すに至りました。
農業と舞踏の融合は、田中さんに新たな視点と表現の可能性をもたらしました。
田中さんの挑戦は、芸術と日常生活の境界を曖昧にし、生きることそのものが芸術であるという考えを体現しています。
田中泯さんの取り組みは、現代社会において忘れがちな自然との共生や、身体を通じた表現の重要性を私たちに再認識させてくれるのではないでしょうか。
田中さんの舞踏家としての新たな挑戦は、芸術の可能性を広げ、私たちに生きることの本質を問いかけています。
御年80歳。まだまだ田中泯さんのご活躍から目が離せません!
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