映画評論家として活躍する町山智浩さんをご存知でしょうか?
アメリカから日本のメディアに向けて、独自の視点で映画やアメリカ文化を紹介し続けている町山智浩さん。
実は早稲田大学法学部を卒業したエリートでもあるんです!
そんな町山智浩さんの生い立ちには、現在の活躍につながる3つの大きな転機がありました。
今回は、町山智浩さんの早稲田大卒という学歴から、生い立ちに隠された3つの転機まで詳しくご紹介します!
町山智浩は早稲田大卒の映画評論家

町山智浩さんは1962年東京生まれの映画評論家です。
早稲田大学法学部を卒業後、出版社での編集者を経て1997年に渡米しました。
現在はカリフォルニア州バークレーに在住し、BS朝日「町山智浩のアメリカの”いま”を知るTV」の司会やTBSラジオ「たまむすび」へのレギュラー出演を通じて、アメリカの政治・文化事情を日本に紹介しています。
学生時代には早稲田大学漫画研究会にも所属し、思春期は映画マニア、SFマニアとして過ごしたと本人も語っています。
著書に『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』『最も危険なアメリカ映画』など多数あり、週刊文春への連載も続けています。
転機①町山智浩が早稲田大学で映画と運命的出会い

町山智浩さんの最初の転機は、早稲田大学時代の映画との出会いでした。
早稲田大学法学部に在学中、町山智浩さんは早稲田大学漫画研究会に所属していました。
19歳の頃に自作の『ルパン三世』本を制作し、その深夜に放送された山下耕史監督作品『危ないことなら銭になる』を偶然観て衝撃を受けたというエピソードがあります。
この体験が映画への情熱を決定づけたとされています。
学生時代からアルバイトで編集プロダクションに出入りし、ケイブンシャの大百科シリーズなど多くのアニメ書籍を執筆していました。
こうした大学時代までの映画へののめり込みが、後の評論家・編集者としての原点になったのです。
転機②町山智浩が映画秘宝創刊でカルト映画の伝道師に
町山智浩さんの2つ目の転機は、1995年の映画秘宝創刊でした。
宝島社での勤務を経て洋泉社に出向した町山智浩さんは、映画誌『映画秘宝』を創刊しました。
『映画秘宝』は「映画よりも面白い原稿」をモットーに、ハリウッド大作から忘れ去られたカルト映画まで幅広く紹介する雑誌として知られました。
町山智浩さん自身も後年、「『映画秘宝』って友人を集めて作ったガキの秘密基地みたいな雑誌」と語っており、趣味仲間の好きなカルト作品を共有する場として雑誌を立ち上げたことがうかがえます。
これにより町山智浩さんは”カルト映画の伝道師”として名を馳せ、多くの映画ファンに影響を与えました。
転機③町山智浩が渡米しアメリカ文化評論家へ転身

町山智浩さんの3つ目の転機は、1997年の渡米でした。
1996年に映画雑誌『キネマ旬報』編集部でトラブルを起こし、当時の勤務先であった洋泉社を辞職しました。
その後、妻とともに1997年にアメリカへ移住し、現在はカリフォルニア州バークレーを拠点に活動しています。
編集部でのトラブルの詳細は残念ながら明らかになっていません。
BS朝日『町山智浩のアメリカの”いま”を知るTV』の司会や、TBSラジオ「たまむすび」へのレギュラー出演などを通じて、アメリカの政治・文化事情を日本語で解説しています。
また『週刊文春』などへの連載や著書執筆を通じて、米国内の社会動向や映画事情を紹介しており、これにより「アメリカ文化評論家」としての立場を確立しました。
まとめ
町山智浩さんは早稲田大卒の映画評論家で、生い立ちには3つの大きな転機がありました。
早稲田大学での映画との運命的出会いが、映画評論家としての原点となりました。
映画秘宝の創刊により、カルト映画の伝道師として名を馳せました。
そして渡米により、アメリカ文化評論家としての地位を確立しました。
学歴だけでなく、情熱と行動力で独自のキャリアを築いた町山智浩さん。
これからも町山さんのの活動に注目していきましょう!

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