小泉セツさんと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)氏の物語は、日本文学史に残る感動的な国際結婚の一つです。
しかし、あまり知られていないのは、セツさんがバツイチだったという事実です。
今回は、セツさんの波乱に満ちた人生と、小泉八雲氏との運命的な出会い、そして二人の愛の物語に迫ります。
小泉セツの波乱の前半生

小泉セツさんの生い立ちについてみていきましょう。
小泉セツさんは1868年(慶応4年)2月4日、島根県松江市に生まれました。
セツさんの人生は、幼少期から波乱に満ちていました。
- 生後7日で養子に出される
- 明治維新による士族の没落で、11歳から織子として働く
- 18歳で結婚するも、わずか1年で夫が出奔(所在不明となった)
セツさんは生まれる前から、養子に出されることが決まっていたのだそうです。
セツさんは22歳でバツイチとなり、実家に戻って生活を立て直す必要に迫られました。
この経験は、セツさんの人生に大きな影響を与えることになります。
小泉セツの小泉八雲との運命的な出会い

1891年(明治24年)、セツさんの人生は大きく変わります。
セツさんは23歳のとき、ラフカディオ・ハーン氏(後の小泉八雲氏)の家政婦として働き始めたのです。
二人の出会いから、以下のように徐々に惹かれ合っていったようです。
- ハーン氏は40歳のアメリカ人ジャーナリストで、日本に魅了されていた
- 言葉の壁を乗り越え、二人は徐々に心を通わせていく
- セツさんの語る日本の昔話や怪談に、ハーン氏は深く魅了される
この出会いが、セツさんとハーン氏の運命的な馴れ初めとなりました。
二人の間には18歳もの年齢差がありましたが、互いの魂に強く惹かれ合ったのです。
二人にとっては、年齢差も言葉の壁も大きな障壁とはならなかったようですね。
小泉セツの2度目の結婚と小泉八雲の妻としての人生

セツさんとハーン氏の関係は深まり、やがて結婚へと発展します。
1896年(明治29年)、セツさんは28歳で2度目の結婚をしました。
結婚後の二人は、
- ハーン氏は日本に帰化し、小泉八雲となる
- セツさんは八雲氏の創作活動を支える重要な役割を果たす
- 二人の間に4人の子どもが生まれる
セツさんは八雲氏の「リテラリー・アシスタント」として、八雲氏の作品創作に大きく貢献しました。
セツさんの語る日本の物語が、八雲氏の名高い怪談作品の源泉となったのです。
八雲氏は息子にこう語ったと伝えられています。「この本みなあなたの良きママさんのおかげで生まれましたの本です。なんぼうよきママさん。世界で一番良きママさんです」
小泉八雲氏は愛妻家だったようですね。
セツさんの協力により、八雲氏は日本文化を深く理解し、多くの名作を生み出しました。
代表作『怪談』には、セツさんから聞いた「耳なし芳一」や「雪女」などの物語が収められています。
これらの作品は、日本の伝統的な物語を西洋に紹介する重要な役割を果たしました。
八雲氏は1904年に54歳で亡くなりましたが、セツさんはその後も夫の遺志を継ぎ、作品の管理や普及に尽力しました。
セツさんは1932年、64歳で生涯を閉じるまで、八雲氏の功績を守り続けたのです。
まとめ
小泉セツさんの人生は、困難を乗り越え、運命的な出会いを経て、日本文学史に残る重要な役割を果たすまでの感動的な物語です。
- バツイチという経験を乗り越え、国際結婚を成功させた
- 小泉八雲氏の創作活動を支え、日本文化の世界的普及に貢献した
- 二人の愛は言葉や文化の壁を超え、深い絆となった
小泉セツさんの生涯は、困難を乗り越え、自らの力で人生を切り開いた女性の姿を象徴しています。
小泉セツさんと小泉八雲氏の物語は、単なる国際結婚の成功例にとどまりません。
二人の協力が日本文化の世界的な理解と普及に大きく貢献したという点で、文化交流の重要な一章を築いたと言えるでしょう。
セツさんの物語は、現代を生きる私たちに、文化の架け橋となることの意義と、困難を乗り越える勇気を教えてくれているのではないでしょうか。
コメント